12月19日に大槻ヴァレリアハルエさんをゲストにお迎えした、みちのくらし第4回 「故郷を離れ暮らすこと。そうして繋がる文化と人」が終了致しました。
今回のみちのくらしはブラジル料理付きということで、ヴァレリアさんの指導の下タブレメンバーも一緒になって料理の準備をしました。調味料やお酒など、普段では中々見る機会のない材料が沢山使われました。準備が進むにつれて、美味しい香りがお店を満たしていきます。
トークの前半はヴァレリアさんの生い立ちと、震災後の活動について話を伺いました。ヴァレリアさんの笑顔と明るい語り口調が会場の雰囲気を緩めていきます。
<最初は日本に来たくなかった。>
ーー蒲生出身のおじいさんがいらっしゃるヴァレリアさん。そのおじいさんはコーヒー農園の地主になるために、家族の反対を押し切りブラジルへ渡りました。日本に戻るつもりでいたのですが、まもなく第二次世界大戦が開戦。ブラジルにとって日本が敵となってしまった為、日本へ戻ることが許されませんでした。当時のブラジルでは、日本文化の全てを取り除かれてしまいました。その後、日本が敗戦という形で終戦を迎え、「勝ち組」と「負け組」 というブラジル内で起こった日本人(移民)同士の戦争なども経験するなど、そういった中で暮らしていました。
日本に出稼ぎに来て1年半ほど工場で働き、その時におじいさんの故郷である仙台を訪れ、大好きになりました。日本での暮らしは、日本語は喋れないが(顔立ちが日本人なので)日本人という風に言われ、日系人として複雑な心境でした。仙台では日本語もわからないのに訛った言葉で迎えられとても困惑しましたが、温かさに触れるにつれて仙台だったら住めるかもしれないと感じました。
<仙台は第二の故郷>
ーー工場で働いた後、日本からブラジルへ戻りますが、1995年に東北大学歯学部で技術研修するための試験を受けました。受かる自信は全く無かったが、合格。また仙台に来ることができました。そこから沢山の日本人と交流するようになり、仙台のことを第二の故郷だと思っています。
<私の願い>
ーー日本へは出稼ぎや留学、仕事などで来ていて、様々な立場で関わることで、とても勉強になりました。その中で課題に感じているのは、日本に住むブラジル人コミュニティとその地域に住む日本人の交流です。交流はほとんどありません。
外人も日本人も全員が被災した震災を通して考えるのは、日本人とブラジル人が関わり合いながら一緒に暮らしていける多文化社会。それぞれの良い所を取り入れながら、より良い社会に向かって進むことができればと願っています。ブラジル料理のように、ごちゃごちゃまぜこぜに暮らせれば良いですね。
<震災時は?>
ーーブラジル大使館からは、原発が危ないから迎えにくのでブラジルに帰るようにと言われました。また、同じ時期にブログなどから「支援をさせてください」などの連絡が沢山くるようになります。ブラジル人がいなければ、そういった支援物資を受け取ることができなかった事情もあり、私は日本に残り支援の活動を行うことにしました。
それからは、支援物資が積まれたトラックが来たり、炊き出しをしたり、支援活動をしました。家にも支援物資が届くようになったりと忙しい日々でしたが、沢山の人は心配をしてもらったり、料理を作ってもらったり、人との繋がりを感じ温かい気持ちになりました。今後は、こうした経験を話す活動を必要と感じています。
一旦休憩をはさんで、ブラジル料理の紹介と共にテーブルに並べていきます。ヴァレリアさんの説明を聞きながらいただきました。そのどれもがとても美味しかったです。参加者の皆さんの自己紹介や参加の動機なども伺っていきました。
後半は、パソコンで写真を映しながらお話していただきました。ブラジルの昔の様子や、想い出の写真、出稼ぎの様子、ブラジル人コミュニティにあるスーパーの様子、震災後に仙台で行った活動の様子などがありました。
参加者の皆さんからは、ブラジルの文化や歴史について、ブラジルでの生活について沢山の質問が出ました。ヴァレリアさんが話すブラジルの普段の暮らしは、よく聞くブラジルのイメージとは違い、日本にもよくある暮らしと似ている部分もあるように感じました。
ヴァレリアさんは最後に改めて、「日本とブラジルの文化交流には、沢山の課題がある。今まで築いてきた沢山の繋がりを感じ、更に沢山の人に出会いながらブラジルの文化を伝えたい。」と笑顔で話して下さいました。
互いの文化を知り感じることで、より良い方向性を進んでいくヴァレリアさんのお話はとてもしなやかで力強く、笑顔に溢れていました。参加者のみなさまの中でも、ブラジルに行きたい!ツアーを企画して!という提案も挙る程(笑)とても和やかな雰囲気でした。
参加していただいた皆さま、ゲストのヴァレリアさん、有難うございました!